傷だらけ父さんのHappy Life Journey -マルファン症候群と共に生きる-

難病(マルファン症候群)をもち、これまで多くの手術を経験。そんな傷だらけ父さんの闘病記とハッピーな人生を追い求め挑戦する姿を紹介します。同じような境遇にある人、支える人達の不安を和らげ、諦めない気持ちへのエールになれば幸いです

大動脈解離 B型 ⑤保存的治療(合併症による再入院と手術決定)

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仕事復帰2週目の最終日、9月末に突然の腹痛

 7月に突然おとずれた人生2回目となる大動脈解離の発症から2ヶ月半の間は入院と自宅療養でゆっくり過ごしていました。そして、自宅療養期間を経て、9月中旬から仕事に復帰。

 仕事復帰の始めの頃は体調が万全ではないとはいえ、まずまず復帰できている感触をつかんでいました。徐々に仕事の負荷だったり、連続で集中する時間を長くしていくような感じで。

 とはいえ、もともと午前様まで仕事をしていた激務の部署でしたので、今後の不安は尽きませんでした。さすがに、会社で倒れた人間に対しては病状を理解してくれたようで、復帰から1週目には、その部署から馴染みのある旧所属部門へ異動が決まりました(今考えると、その激務を当たり前とする部署から戦力外通告だったと思いますが)。

 何がともあれ、倒れた部署からの異動が決まっており、仕事復帰から2週間たった9月最終日は “10月初日となる明日からは、心機一転。新しい(よく知った)部署での仕事だ。“と嬉しい気持ちでいました。

 しかし、デスクの引越しや旧所属部署のメンバーへの挨拶も終え、帰宅したその日の夜中、自宅ベッドで寝ている時にそれは起こりました。

 ”腹が痛い。息が吸いづらい。“ そして、その痛みはだんだんと強くなっていきました。

 奥さんに、「何かお腹が痛い。やばいかもしれない。」と言った後からは、痛みでベッドから起き上がれなくなりました。その時は、”(大動脈解離でできた)大動脈瘤が破裂したのかもしれない。これはもうダメかも知れない。おわりかも。“と思いました。

 同じく最悪の事態を想定した奥さんが、夜中1時半くらいではありましたが、救急車を呼んでくれました。

 救急車が到着してすぐに救急隊は寝室で血圧や症状の確認を始めました。奥さんからは救急隊に2ヶ月前に私が大動脈解離を起こしていること、大動脈解離による大動脈瘤が身体にあることが伝えられました。そして、入院・通院していた大学病院にまた緊急搬送されました。わずか3カ月弱の間に救急車に2回も乗るとは。。。

 その時の記憶は、お腹の痛さと苦しさではっきりしていないのですが、救急隊が測定した血圧を読み上げた時、今まで聞いたことはない低い値だったということ、夜中にドタバタと起こされた子供らは意外にも「行ってらっしゃい。」とでも言いそうなぐらい冷静だったことを覚えています。

 こんなに何度も救急車や入院、手術を経験した話のあるお父さんを持つと、その親の子供はそんな状況も慣れてしまうのかも知れないですね。ストレッチャーに横になり玄関を出る時、そんな彼らと同伴する奥さんを薄目で見ながら、”ありがとう。人生楽しかったわ。”と思い、奥さんに「本当、ありがとう。」と伝えたことを覚えています。奥さんはそれどころでは無かったので、その言葉は覚えていないみたいですが、それくらい”もうダメかも知れない“と思わせる痛さでした。 

 そして、実に2ヶ月半ぶりに同じ病院、同じ緊急治療室に救急車で戻ってくることに。。。

2ヶ月半ぶりの緊急搬送

 緊急治療室では、すぐに手順良く応急処置がほどこされました。着ていたTシャツはハサミであっという間に切り裂さかれ、医療ドラマで良く見る「イチ、ニ、サンッ!」という掛け声とともにストレッチャーから集中治療台に広げられた手術着の上に移されました。

 その手術着が薄いこともあってか、血圧が低かったこともあってか、強烈な寒さを感じて、ガタガタと身体の震えがずっと止まらなかったことを覚えています。

 寒気で手が震えている影響もあったのだと思うのですが、手首の動脈にいれる点滴(Aライン)の点滴針を刺すのにドクターは少し手こずっていました。記憶してることでは3回目位にやっとうまく入りました。そして、その後、準備ができたCT検査室へストレッチャーで移動しました。

 余談になりますが、夜中の緊急搬送はおススメしません(そんなこと言ったって無理なものは、無理なんですが)。

 なぜなら夜中は基本的に看護師さんやドクターの数が少ないです。ドクターも病状に合わせて対応できる人が待機している訳ではないみたいです。実際、今回Aラインの点滴針をいれるのを頑張ってくれていたのは研修医だったようで、周りから色々アドバイスされていました。また、以前テレビか何かで見たのですが、担ぎ込まれるなら夕方4時頃が良いらしいです。たしかに、今までICUやら一般病棟に何度も住み着いた経験から、私もそう思います。夕方4時あたりは日勤と夜勤の入れ替わりで人が多くいるのを見てきましたね。

 とは言え、先ずは夜中には担ぎ込まれないことが一番です。もし万一、体調の異変を感じて、”このまま悪化したら夜間に救急車のお世話になる。” と頭によぎった場合は、できるだけ早く病院にいく事をおススメします。

診断結果、そして再入院 

 ドクター達がCT検査の結果をモニターで見ながら話し合っているのがうっすら横目に見えていました。ただ、なかなか結果を伝えに来ない。そしてしばらくした後、CTの診断結果を集中処置室のベッドの上で聞くことができました。想定していた大動脈解離や大動脈瘤とはまったく別の場所に痛みの原因がありました。

 CT検査の結果をドクターから、「専門的に言うと、門脈内ガスが認められます。肝臓のところにガスが詰まっていて、これが激痛の原因と考えられます。とても稀な病気です。」と伝えられました。どうやら大動脈は大丈夫そう。

 ただし、このまま小腸の炎症が収まらず、小腸が壊死するようなことがあると危ないとのことで、入院して治療することになりました。(ちなみに後で調べて知ったのですが、この門脈内ガスという稀な病気もかなり致死率の高い病気でした)

 結果を聞く頃には、鎮痛剤の点滴のおかげもあり、耐えることのできる痛みに落ち着いていました。よく救急隊やドクターに、「いまの痛みは今までで一番痛かったのを10とするとどれくらい?」と聞かれるのですが、夜中に発症した時は人生で一番痛い10の痛みだったと言えます。それが、診断結果を聞いたその時には4くらいになっていました。

 その診断結果を聞いて、私の落ち着いた状態を確認した奥さんが子供の待つ家に帰ることが出来たころには、時計の針は朝の7時半を回っていました。

門脈内ガス(虚血性腸炎)による入院

 それから10日間、ICUと一般病棟で入院・治療をしました。門脈内ガスの原因となったのは「虚血性腸炎」。大動脈解離に伴う合併症のひとつとして発症したのであろうとの事でした。

 入院期間は1週間で、その間はほぼ絶食による治療でした。(虚血性腸炎についての詳細や入院については今後、別途「他の病気・合併症の経験録」としてまとめ投稿します。)

入院中に大動脈手術の決定

 9月にCT検査をした段階で、既に大動脈瘤の一番太い箇所(肩甲骨の裏辺りの遠位下降大動脈と呼ばれる箇所)が手術適応のサイズであったことに加えて、今回の虚血性腸炎の件もあり、入院中に心臓血管外科のドクターと話し、この大動脈解離でできた大動脈瘤の手術をすることが決定しました。

 今回決定した手術は脳に血液が行く大動脈の近くから裂けている箇所の手術であり、脊椎の近くを触ることから、難易度が高いとのこと。また、麻痺や声が出なくなるなど様々な後遺症のリスクがある事も併せて伝えられました。正直、後遺症のリスクは怖いと感じました。ただ、大動脈瘤を抱えながら生活をしていく中で色々な苦痛を経験してきた為、手術が出来るという判断に内心ホッとしたことを覚えています。

ひと時の職場復帰

 次の大動脈手術は虚血性腸炎の退院からおよそ2週間後の10月末に決定。

 手術まで休職するという選択もありましたが、手術後に出来るだけスムーズに仕事に戻りたい。今なら少しでも働ける。働きたい。という気持ちがあり、1週間だけではありましたが新しい職場(10月から異動した馴染みのある職場)に仕事復帰しました。

 虚血性腸炎の腹痛もだいぶ治まってはいましたが、腹痛が怖く消化の良いメニューだけを少しずつ、ゆっくり食べるという食事を続けていました。また、降圧剤もこのころから効きすぎている感覚が一層強くなり、買い物中にめまいで座り込むことがありました。

 食事と血圧に注意を払いながらも、久々の馴染みある職場での仕事を楽しみつつ、虚血性腸炎の退院からわずか12日後、人生2度目となる大動脈手術に向け、何度もお世話になっている大学病院に手術前入院しました。